キャリア

天職でなくてもいい!適職ならば。救われた言葉

 

「これって私の天職なのかな?」「私の天職ってなんだろう?」40代、50代の働く女性なら、これまでに何度か考えたことがあるんじゃないかな。

私も結構よく悩んでいました。それなりの評価もされていたし、管理職までやっていたけど、「天職」なんて思えたことは全然なくて。

そんな私が、ある人の言葉でまさに目からウロコ。(いい意味で)「天職」にこだわなくていいんだと思えたのです。今日はその言葉について書いてみようと思います。

もう、20年位前の話なんですが、あの時は本当に救われた思いだったのです。

そもそも天職って何?

私の「天職」のイメージは、「自分はこれをやるために生まれてきたー!」と思える、とか「すご〜やりがいを感じて、充実感を覚える」と思える仕事。そう思える仕事をしている人を見ると、羨ましくて仕方なかったです。

当時の私は本当によく働いていたけど、世間でよく言われていた「仕事を楽しく」という言葉に、馴染めなくて、そう思える人は現実にいるのだろうけど、私がそう思うのは無理、と思っていた人です。

私はプロジェクトコーディネーターという調整役でしたので、とにかく苦労が多かった。それでも何屋さんというのがなく、同じ会社の中でも専門スキルでやっている人を見ると(SEとかコピーライターとか経理とか営業とか)、いいなあ、私はXXですと言えるものを持っていて、と思っていたものです。

(*つい最近(独立して5年経ってから)、「マルチポテンシャライト」という資質があることを知り、私はまさにこれだ!と思えて、安心すると同時にとても嬉しかったんですが、「マルチポテンシャライト」については、また別の機会に書きます)

天職と適職

当時読んでいたファッション雑誌に江原啓之さんが連載をしていました(悩み相談だったかな?)。

そこにこう書かれていたんです(文章はかなりあやふやですが、本質な意味合いは全く相違ないです)。みんな「天職」を仕事にしないといけない、と思っているけど、そんなことはないんです。

あなたが得意なことで、人に喜んでもらえる「適職」を収入を得るための仕事にして、「天職」はお金に関係なく楽しめるようにしている方が幸せかもしれないです。

たとえば、絵が好きで「天職」だと思えても、それで生活していくための収入を得ようとしたら、生活のために書きたくない絵も書かなくなければなって、苦しくなってしまう、ということも起きるからです。

たとえば、野球が好きな人が、マーケティングが得意で食品会社に勤めていても、そこで自分のマーケティングスキルで喜んでもらえているなら、それを「適職」として、「天職」と思える野球は、週末に地元の子供達に野球を教えることで叶える、という方法もあるんです。

(念のためですが、このお話は、どうしてもやりたくないことを、生活のために我慢してやるということではないです。それはまた別の次元のことですね)

自分はどう生きたいのか?何を大事にしたいのか?

この言葉で、私は収入を得るための手段としての仕事と、一生やっていきたいようなことは分けて考えていいんだと思えたのです。

収入を得るための手段としての仕事は、得意なことを活かして喜ばれる・評価される「適職」。一生やりたい「天職」は、仕事として考えようとするから悩んでしまうわけで、どんな形であれ、伸び伸び好きなようにやれる状態でやるのがいいんだと。

そう思えたら、当時の仕事には役に立っているという自負はあったので、自分の仕事に自信も持てたのです。

「天職」については、結局のところ、自分はどう生きたいのかにかかってくるんだなと感じています。

それは何か1つのこと(たとえば、旅行とか料理とかDIYとか)であるかもしれませんし、軸となる価値観に基づいた様々な行動でもいいんじゃないかと。

私の場合、これと決めて関心を持って集中的にやりある程度極める、また新しいことに関心が芽生えるタイプなので、いまだに1つのことで「天職」と言い切れるものはありません(これもマルチポテンシャライトたるゆえん)。

ただ、価値観というか大切にしていることとして「自分も人も尊重する」「教育を受けられない子供のために何かできることをする」というのがあります。

「自分も人も尊重する」というのはあり方として意識していますし、このビジョンデザインアカデミーの理念の1つでもあります。「教育を受けられない子供のために」そうした機関に寄付をしたり、微力でも自分が得てきたことを何かしら還元できるようにしていこうと思っています。

まとめ

「天職」は「収入を得るため」の手段でなくてもいい。役に立っていると自負があるなら「適職」に誇りを持とう。