「何かを選択するとき、自分を信じきれるだけの努力をする」フィガロジャポン3月号に掲載されている写真家・映画監督の蜷川実花さんの言葉。
この言葉を見たとき「あー、これだ。私が言いたかったこと」と釘付けになりました。
幸せの基準は人それぞれ。自分にとって、何が大切で(かっこよくて)、何をかっこ悪いと思うのかの柱を持つ。情報に振り回されないよう、取捨選択の自分の物差しを持って、一歩踏み出す勇気。そうした「何かの選択をするとき、自分を信じきれるだけの努力をする」私はそう生きています。とありました(一部抜粋で書いています)。
努力=地味にコツコツではない
「努力」というと、地味にコツコツというイメージがありますが、このメッセージでのイメージは「自分が後悔しないレベルまで、やれることをやる」ということだと、私は感じました。
「全部やったか?」ではなく、「努力をする」という表現が合うなと感じるのは、「これで十分、これでダメなら後悔しない」と思える基準は人によって違うから。「やってみなきゃわかんないし、なんとかなるでしょ」と思える人もいれば、「石橋を叩きすぎて壊す」人もいるからね。基準は千差万別。なので、やれるだけやってみるという努力なんですよね。
自分の選択基準=正しさではない
自分の柱となる考え方の1つですが、実花さんは、”何がかっこよくて、何がかっこ悪いか”を追求して、と書いてらっしゃいました。私は個人的に、よく、”自分にとって、何が粋(クール)で、何が粋でないか”と考えたりしてきました。かっこつけるとか、見栄を張るとかじゃなく、あり方として。
どうあるべきか、とか、何が正しいかと考えると、どうしても常識にとらわれがちになりますが、自分にとって何がかっこいいか?と考えると、妙に常識にとらわれることなく、なんとなく選びやすくなりません?
やりきる=成し遂げる、ではない
私が会社を辞めるときも、アドバイスをくれたコーチはこんなふうに言ってくれました。
「なんであれ、自分がやりきった(それが途中でもなんでも、達成できていなくても、完成していなくても、解決していなくても、あくまで自分の基準)。と思えるところまでやって辞めたほうがいい。そうしないとまた同じことで行き詰まる」と。
まさにそのとおりで、もうここではやりきったと思えたので、その先、結果がどうあろうと後悔しないと思えたし、自分の決断への自信につながったのです。
こうしたとき、心優しきガンバり屋さんは、「他人の基準」で考えてしまうから、つらいし、逃げ場がなくなってしまうのはないかな。
ガンバらない=決断の責任を人に委ねるものではない
偉そうなことをいうつもりは全然ないのですが、最近、ガンバらない、という風潮が、かなり拡大解釈で、なんでもラクな方がいい、痛い目に遭わないように、大変なことはしないでいいみたいな、せっかくの人生をつまらなくしてしまうかもしれない方に流れて、ちょっと努力しようとかいうと、それは昭和(平成も飛び越して)だとかいう風潮に違和感を覚えていたので、この蜷川さんの言葉に激しく同意しちゃいました。
たとえば、多くの人がアスリートに感動するのは、その背景にある彼らの努力にも尊敬の念を抱くからですよね。
ガンバらないでいい、というのは、自分の基準がないまま(自分を大事にしないまま)、自分以外の人のために自分を犠牲にしすぎちゃったり、完璧主義だったり、理想が高すぎたり、責任感が強すぎる人への優しいメッセージだと思うのです。そんな方は、ぜひ、少しでもラクになってほしいなと思います。その手を緩めても大丈夫ということに気づいてほしいですよね。
(アスリートの方も、周囲の期待を過度に背負うとプレッシャーで潰されてしまいますよね)
どう生きるかの選択も自分の選択。その時々自分を信じきれるだけのことをしつつ選んでいくと、(後から振り返って反省はしても)後悔はしないんじゃないかなと。
もちろん、なんでも一人でやれということではなく、いろんな人にどんどん頼って助けてもらっていいと思っています。私もそうだけど、人間一人がわかっていることなんて、たかが知れていますからね。でも、決断に対する責任は自分で負う。そうして人は成長していくのだと思うのです。
そして、与えられた分、自分も誰かに与えていく。それが結局、自分自身も幸せにするんだと思うな。
それに、何かを選択するとき、自分を信じきるだけの努力をしてきた女性は美しい。私はそう思っています。